すばらしい、演奏だった。
 しかしその半分も、私の耳には届いていなかった。

 エスク・マリア・ローレン――その名が、ずっと頭の中でこだましていた。
 なぜ、彼女はここにいるのか?
 そんな疑問が、絶えず私を支配する。

 グラーヴェ先生は、隣で拍手に包まれて礼をする、彼の娘を見つめていた。もちろん、
マリア先輩の存在には気づいていない。
 ――告げるべきだろうか?
 あなたを捨てた女性が、ここにいると。

 しかし、そうすることが、本当に正しいのか、今の私にはわからない。告げるのなら、
彼女がピオーヴァに姿を現した時にするべきだった。あの時はまだ彼女がなぜこの街に
来たのか、その理由さえもわかっていなかったから、それを確かめてからという気持ち
もあった。いや……それをいうのなら、今もまた、どうしてこの会場にマリア先輩が来
ているのかも、理解しがたかった。

 言うべきか? それとも、言わないべきか。
 グラーヴェ先生は、変わられた。戻ったといったほうが正しいかもしれないが、とに
かく、彼はあの長い暗雲から抜け出せたはずだった。
 もし私が真実を告げたとしたら、どうなる? 想像は容易く、その先に横たわる暗く
長い未来を、はっきりと見ることができた。彼女がここにいることを知ったら、彼は再
び、変わることを余儀なくされるだろう。長い時間をかけ、ようやく戻ったのに、再び
過去へと引き戻される。その変化は、誰のためになるというのだろう?

 では、言わないのが果たして本当に正解だろうか? 自分一人がこの事実をうちに秘
め、なにもかも悟ったように采配を振るうのは、果たして正しいことだろうか?

「コーデル。具合でも悪いのかね?」
「……いえ、先生」
「リセルシアのことで、礼の代わりの食事でもと思ったが、やめておいたほうが良さそ
うだな」

 礼? この人は、本当にそんなことを言う人だっただろうか?
 私の記憶では、初めてのことだった。

「早く、家に戻ると良い。車を手配しよう」

 言うなり彼は、後ろに佇んでいた男に小声でなにかを告げようとした。

「いえ、大丈夫です、グラーヴェ先生。歩いて帰れます」
「しかし」
「お食事の件は、またぜひ次の機会にでも」

 訝しげに私を見つめるグラーヴェ先生を残し、私はロビーへと向かった。
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